「ふつう」ってなんだ!?
ふつうってなんだ。
この戦争に決着をつけたい・・・。
というか、つけられるのは 前者後者論だけではないだろうか。
それだけで布教価値があるのではないだろうか。
何回 見たことか。
(言った/思ったことか)
これぞ前者と後者のスーパーテンプレート会話です。
前者と後者の社会感覚の違いを ひとことで言うと
【テーブル】
が 挟まっているか/ いないか です。
テーブルってなんぞや、というのは
以下読み進めてください。
前者というのは、各自の頭の中に
「ゲーム盤」=シミュレーション世界(のようなもの)を展開しています。
※当たり前すぎてわざわざ認識していないかも
で。
みんなが「そう」な前提なので
前者は 各自のこのシミュレーション盤を すり合わせます。
そのすり合わせをする
中央共有フィールド=テーブル
のようなもの
が 意識もされない前提として、「ある」ことになっている。
そこでお互いの 前提を持ち寄り
ゲーム盤のルールや前提を調整する。
いってみれば各自の
「ふつう」をすり合わせる。
そうすることで
「同じゲーム」を していることを確認する。
それができて初めて、
「じゃあ、こういうルールだね」
「じゃあ、役割はこうだね」
みたいに 対話や、交渉が可能になっていくわけです。
逆にこの「ふつう」が共有できなかったら
「やっているゲームが違う」ままですから
極端に言えば 会話も共生も不可能です。
社会=立っている大地 を共有できない。
「ふつう」の共有は
前者にとっての 社会関係の前提です。
前者が「ふつう~だよね」と言ってくるのは
このゲーム盤を通した話、
ゲーム盤の確認をしようとしているのです。
また、そういう前提ですので
前者の世界ではそれとセットで
ゲームをしていたら「ゲームをする」のが 大前提です。
ゲームに参加した以上
ゲーム上の関係や戦略がどうかの前に
ゲームを成立させるためにプレイする のは
プレイヤーとしての 言うまでもない最低条件ですよね。
つまり、何もせずに
無条件にそこにいていいわけではありません。
参加する気がないなら、ログアウトしろという話です。
そこにいる資格はない。
だから それがプライベードだろうと、基本的に
「DO」を通して交流する
ゲーム上のプレイ責任を果たす
これが前者の基本感覚です。
ですが、前者にとっては
「世界って存在しますよね」くらいの前提であるこの感覚が
後者にはないわけです。
ゲーム盤がすり合わせられるかどうか
とかではなく
中央フィールド=テーブル介して関係する
という発想がそもそもありません。
後者は、直接把握、ダイレクト接続で世界を認識しています。
自分の知っているものが世界。
自分=世界。
自分が中心で、自己延長的に世界が存在しています。
そして前者と同じく
全人類がそうだと思っていますから
後者の世界観は こんなイメージ。
そんな後者同士の交流は「直接交流」…
あれに似ていますね。
ぷよぷよ。
つながりのカタチや強さは いろいろあるでしょうが
(独立連合~心臓を捧げる一心同体)
世界どうしがゆるく直接つながることで
全体がなんかできあがる。
それが社会。
あるいは、テーブルではなく
「箱」を作ってそこに人を放り込み
同化反応を促すのもありです。
(学校とか会社はそんなイメージ)
もちろん、後者の世界でも
人が集まれば 利害調整は必要です。
だから「ルール」は、後者も必用だし当然つくりますよ。
ただ それは
「必要だから」
「そのほうが質が上がるから」
「そうすべき(理想)だから」するのです。
あるいは、共通のルールで帰属意識を持たせるため。
無条件にあるのではなく
あくまでBe(個々の状態の質)の向上のための
必用的・目的的・機能的なものです。
(そこまで自覚的にやっているわけではいですが)
で、そんな後者の世界では
人との対話は直接対話が基本形。
直接対話では 主語は「わたし」です。
正確には「わたし」でなくてもいいのですが
つまりそれが
誰の意思で発動されたのか
誰の望みや興味なのか
誰の幸福や満足を上げるのかという
主体をはっきりさせる。
それがストレートで自然な会話方法です。
この前提では「ふつうは」という言い方をするというのは、
全体に関わる
「”あるべき像”に関わるステージの対話」
を始めているか、
そうでなければ
相手や場に活動をリクエストしておきながら
その主体を誤魔化している
卑怯な言い方
に見えます。
直接言われれば、別に
「あなたの幸福の向上や満足のために動くのは 厭わない/歓び」
なのに、なぜ
「するべきこと」「して当然」
なんて言い方をする必要があるのか。
※逆にするべきこと・して当然だと思うことなら後者ももちろん「ふつうは」と言います
もちろん角が立たない言い方を選ぶことは大事だし
「言わせるなよ」「拾えよ」「恥をかかせるな」という
「粋」「優しさ」「配慮」「問答無用」
「本音と建前」
の感覚は後者の世界にもありますが
あくまでこの基本形から派生している応用形です。
ベースは「言えばいいじゃん」「直接言う」
ちなみに当然ですが、
そこでなにかしら「衝突」することがあるのも
織り込まれている前提です。
これが、前者と後者の
「ふつう戦争」の正体です。
後者は
「(私があなたに)してほしい」
「(私の意思であなたといっしょに)しよう」
「(私が)したい」 と 直接言えばいいことを
なぜ一回まわった言い方をするのか本当に謎に思っています。
逆に前者は、
社会関係の第一歩すら受け入れてもらえない状態を、
不安にも違和感にも思っているし
小さく傷つき続けていたりします。
そしてお互いそれが「当たり前」だと思っているので
永遠に交わらないのです。
■後者にテーブルトークができないわけではない
誤解のなきように付け加えますと
別に後者が
前者的なテーブル交渉やゲーム共有が
理解できない、できない
ということではありません。
だって後者だってそういうゲームやりますし
できますからね。
だから「(私が)そういう話がしたいんだ」
「(私が)そういう風にしたいんだ」
と言ってもらえれば交渉は可能です。
ただ初期設定ではないし
発想をまず知る必要もある。
あと、外でやっている人でも
外でやっているからこそ家では自然体にしているとか。
スイッチ式でやっている。
だからまず
「それをしたい」と伝えるステップは必要です。
また、最初は訓練も要るということです。
■前者には大きな抵抗がある
逆に後者は前者に
自分たちのスタイルをまっすぐリクエストしていると思いますが
前者はこれにかなりの抵抗があります。
なぜなら
①盤の上に自分の感情や都合を出してはいけない
という本能的なルール・タブー感がある
②盤を挟まない関係は、本体がダメージを負うリスクが高い
(そのダメージへの耐性と慣れが後者と違う)
③前者は他者との境界線をはっきりさせることで自我をつくっている
→ 他者との境界線が曖昧でも自我が崩れない後者と違って
境界が無防備になることが危険
だからです。
「できない」わけではもちろんないのですが
後者が思っているほど簡単ではないのです。
■なぜ前者は誰も説明しないのか?
そういう風に言ってくれればいいのに。
…なんて思いますが、まあしないんですよ。
いろいろ理由はあるとは思いますが
ひとつには前者にとって
「相手は中央フィールドがわかってないのかもしれない」
という発想自体が、 ある種のタブー だからかもしれません。
それって相手を
「ゲームのルールが理解できない未熟者」どころか
「ゲームというものの理解すらできない人」
つまり「”人以前”の赤ん坊ないし野蛮人」
かのように疑うという、
美学に反するレベルで非常に失礼なこと だからです。
また相手にそれを期待するのをやめることは
何かしら、この世の前提や
自分の価値をひっくり返すくらい
根本的な何かを諦めなくてはいけないこと
になるので
無意識に想像を避けてもいる…
のではないかなと想像します。
■前者の「あるある」ショック
後者同士は、ぷよぷよのような直接接続で
「おー!」と通じ合います。
しかし前者に対しては
仲が良くなってもそれができない、
何かが挟まっている感覚 があるために
「なんか距離を感じる・・」
「うまく打ち解けきれない」
と感じたりします。
人によってはそれを
「冷たい」なんて言葉にします。
でもそれを言われた前者は
相当ショックなのです。
(あと、冷たいという言葉が、盤上の評価のようにも聞こえて重い)
前者にとっては、
テーブルを挟むことこそ
相手への尊重だし、マナーです。
だから「そのせい」だとは思っていないし
逆にもしそうなら、それは
自分自身の本能に根ざした大事な部分の全否定です。
しかも 相手のためや場のために
さんざんフォローも平和維持活動をやってきた。
(そっちが好き勝手やってたり飛んでいる時に)
なのになぜ「冷たい」という
「評価」がぶつけられ、下されるのか。
しかも何したらいいのかも わからない。
後者は前者のこの受け取り方は
知っておいていいと思います。
■余談
管理人は西洋が前者社会、
日本ふくむ東洋は後者社会だと思っています。
開国後の対西洋交渉で日本が
西洋の感覚がわからなかった話とかは
この「テーブル」を挟む対話スタイルがわからなかった、
てことじゃないかなと思っていたりします。
ちなみに歴史的な交渉のスタイルを見ると
前者社会はテーブルを挟んでトークしますが
後者社会ってテーブル挟まないと思うんですよ。
(時代劇で見たことないなあと)
そのほうが嘘がつけないし、
色んなものをさらすことになる気がします。
体(たい)で会話する。
あと、時代や条件で
バランスはあるかもですね。
個別に強いのは後者のスタイルだし
ある人数や規模やスピードを超えたら
前者のスタイルが適してくる というのはありそう。
以上です!
「ふうつ」論争の終止符に貢献できれば幸いです!