そうですね。人間はひとりひとり違い「同じ人」はひとりもいません。
それを決して忘れてはいけないと思いますし、こんな疑問をお持ちの方の感覚はとてもまともだと思います。ひとくくりに人を語ることに反発があるのですよね。とてもわかります。
これはタイプ論一般の持つ功罪として逃げられないところだなあ、と思うところです。
でも一方で、人を”ある切り口”で「分けて」語ることは、やはり誰でもやっているはずなのです。
体の男女の性別、外向内向、国籍、血液型、星座占い、結婚してるか未婚か、年齢、お酒orタバコを飲む(飲める)人かそうでないか・・・
人は人をあらゆる「違い」で分けて語ることが好きでもあります。
もちろんその中には「生まれ持った」性質で分けてみることも含まれています。
それはそうすることに意味がある、と思われているからです。
だからこういう疑問をお持ちの方が考えるべきは「分けられるわけがない」ではなくて、例えば
①「その分け方に意味や価値があるのか」(効用)
②「その分け方がどこまでの範囲や影響を持っているのか」(射程)
③「その分け方で考えることが、この場合(対象/ケース)に適切なのか」(適用)
④「もっと優先するパラメータはないか」(選択)
をチェックすることではないかなと思います。
①は、少なくとも私はそう確信しているからこそこういう発信をしているわけですが、②~④は私も気をつけて意識しているところです。
でも私が意識したところで、タイプ論はそれを無視して使われちゃうケースは絶対起きるんですけどね。楽だから。(自分が楽になる分には良いのですが)
例えばわかりやすいところでいったら、男女でいうジェンダー(社会的性差)の問題ですよね。
でも生物学的な差まで「ない」とか、それに基づく傾向や適正が「全くない」とか、分けて考えることに「意味がない」という反発の仕方をしてしまったら、さすがに現実を無視し過ぎてかえって不都合だし歪になってしまうと思うのです。
そういう意味では、有力で意味のある分類を新たに世に打ち出すことは、他の「分け方」の弊害部を相殺することにもなります。考慮される要素が結果的に増えるからです。
それが私の考えですが、とはいえやはりタイプ論の持つ功罪というものに責任は感じます。
(事実の指摘ではあるとはいえ、それを広めようとしている立場として)
なので上の①~④のような意識を持ってくださる方が増えることは、私にとっても世界にとっても幸いなことだと思っています。