前提の違い②社会観

「ふつう」ってなんだ!?

 

 

ふつうってなんだ。

 

 

この戦争に決着をつけたい・・・。

というか、つけられるのは 前者後者論だけではないだろうか。

 

それだけで布教価値があるのではないだろうか。

 

 

 

 

何回 見たことか。

(言った/思ったことか)

 

 

これぞ前者と後者のスーパーテンプレート会話です。

 

 

 

 

「つながり・関係」の感覚がそもそも違う

 

前者と後者の社会感覚の違いを ひとことで言うと

 

【テーブル】 が  挟まっているか/ いないか です。

 

 

 

テーブルってなんぞや、というのは 以下読み進めてください。 

 

 

 

前者の前提

 

前者というのは、各自の頭の中に

「ゲーム盤」=シミュレーション世界(のようなもの)を展開しています。

 
※後者の「潜る」と同じで、当たり前すぎてわざわざ認識していないかもしれません

 

 

 

そしてそれを 全人類の初期装備だと思っています

 (参考:①認識の違い

 

 

だから前者の前提は世界観はこんなイメージ ↓

 

で。

 

みんなが「そう」な前提なので 前者は 各自のこのシミュレーション盤を すり合わせます。

 

そのすり合わせをする中央共有フィールド=テーブル のようなもの

 

 

が 意識もされない前提として、「ある」ことになっている。

 

そこでお互いの 前提を持ち寄りゲーム盤のルールや前提を調整する。

いってみれば各自の「ふつう」をすり合わせる。

 

そうすることで「同じゲーム」を していることを確認する。

 

 

それができて初めて、

「じゃあ、こういうルールだね」「じゃあ、役割はこうだね」

みたいに 対話や、交渉が可能になっていくわけです。 

 

 

逆にこの「ふつう」が共有できなかったら「やっているゲームが違う」ままです。

 

社会=立っている大地 を共有できない。

極端に言えば 会話も共生も不可能です。

 

「ふつう」の共有は 前者にとっての 社会関係の前提です。

 

 

前者が「ふつう~だよね」と言ってくるのは

このゲーム盤を通して、ゲームの共有確認をしようとしているのです。

 

 

また、そういう世界観では当たり前ですが

ゲームに参加したなら、ゲームをプレイする のは、利害や戦略以前の、プレイヤーとしての最低条件ですよね。

 

言ってみれば、何らかの形で「ゲームの存続に貢献する」必要がある。

逆に言えば、何もしないなら、ゲームに参加する資格はない。 

 

前者の世界では、何もせずに無条件にそこにいていいわけではないのです。

 

 

 だから 仕事だろうとプライベードだろうと、基本的に

「DO」を通して交流する

ゲーム上のプレイ責任を果たす 

 

これが前者の基本感覚です。

 

 

 

ですが、前者にとっては「世界って存在しますよね」くらいの前提であるこの感覚が 後者にはないわけです。

ゲーム盤がすり合わせられるかどうか、とかではなく「テーブル介して関係する」という発想がそもそもありません。

 

 

 

後者の認識する世界

 

後者は、直接把握、ダイレクト接続で世界を認識しています。

 

自分の知っているものが世界。

自分=世界。

 

自分が中心で、自己延長的に世界が存在しています。

 

そして前者と同じく 全人類がそうだと思っていますから

 後者の世界観は こんなイメージ。

 

 

そんな後者同士の交流は「直接交流」…

 

あれに似ていますね。

ぷよぷよ。

つながりのカタチや強さは いろいろあるでしょうが

(独立連合~心臓を捧げる一心同体)

 

世界どうしがゆるく直接つながることで

全体なんかできあがる。

 

それが社会。

 

あるいは、

 

テーブルではなく「箱」を作ってそこに人を放り込む。

同化反応を促すパターンもありです。

(学校とか会社はそんなイメージ)

 

 

もちろん、後者の世界でも人が集まれば 利害調整は必要です。

 だから「ルール」は、後者も必用だし当然つくりますよ。

 

 

ただ それは「必要だから」「そのほうが質が上がるから」「そうすべき(理想)だから」するのです。

共通のルールによって、帰属意識を持たせる効果を狙っている場合もあります。

(一見不要に見える朝礼とか、号令とか)

 

 

ただルールは前者のイメージよりもっと

Be(個々の状態の質)の向上のための必用的・目的的・機能的なものです。

(そこまで自覚的にやっているわけではいですが)

 

 

で、そんな後者の世界では直接対話が基本形

 

 

直接対話では 主語は「わたし」です。

 

正確には「わたし」でなくてもいいのですが、ともかくそれが

 

誰の意思で発動されたのか

誰の望みや興味なのか

誰の幸福や満足を上げるのか

 

という主体をはっきりさせる

 

それがストレートで自然な会話方法です。

 

 

 

そういう世界観や前提の中で 「ふつうは」を主語にした言い方をするというのは、

 

全体に関わる「”あるべき像”の対話」を始めている(法律作成・宗教戦争)か、

 

そうでなければ、

 

相手や場に活動(島から出ること)をリクエストしておきながら、

そのリクエストの主体を誤魔化している卑怯な言い方をしているように見えてしまいます。

 

 

直接言われれば、別に

「あなたの幸福の向上や満足のために動くのは 厭わない/歓び」なのに、

 

なぜ「するべきこと」「して当然」

なんて言い方をする必要があるのか。

 

※逆にするべきこと・して当然だと思うことなら後者ももちろん「ふつうは」と言います

  

 

もちろん角が立たない言い方を選ぶことは大事です。

 

「言わせるなよ」「拾えよ」「恥をかかせるな」とかの

「粋」「優しさ」「配慮」「問答無用」「本音と建前」の感覚は後者の世界にもありますよ。

 

ただ、それはあくまで「応用形」です。

 

 

ベースは「言えばいいじゃん」「直接言う」

 また当然ですが、そこでなにかしら「衝突」が起きることはふつうのことです。

 

 

 

 

 

これが、前者と後者の

「ふつう戦争」の正体です。

 

 

 

 後者は

「(私があなたに)してほしい」

「(私の意思であなたといっしょに)しよう」

「(私が)したい」 と 直接言えばいい

ことをなぜ一回まわった言い方をするのか本当に謎に思っています。

 

 

逆に前者は、

社会関係の第一歩すら受け入れてもらえない状態を、不安にも違和感にも思っているし小さく傷つき続けていたりします。

  

 

 そうしてお互いそれが「当たり前」だと思っているので、永遠に交わらないのです。

 

 

 

 


補足

 

■後者にテーブルトークができないわけではない

 

誤解のなきように付け加えますと

 

別に後者が「前者的なテーブル交渉やゲーム共有」が理解できない、できない、ということではありません。

だって後者だってそういうゲームやりますし、できますからね。

 

 

だから「(私が)そういう話がしたいんだ」

「(私が)そういう風にしたいんだ」

 

 

と言ってもらえれば交渉は可能です。

 

 

ただ初期設定ではないし、発想をまず知る必要もある。

 

あと、外でやっている人でも外でやっているからこそ家では自然体にしているとか。

スイッチ式でやっている。

 

 

だからまず「それをしたい」と伝えるステップは必要です。

 また、最初は訓練も要るということです。

 

 

 

 

■前者には大きな抵抗がある

 

逆に後者は前者に自分たちのスタイルをまっすぐリクエストしていると思います

前者はこれにかなりの抵抗があります

 

 

なぜなら

①盤の上に自分の感情や都合を出してはいけないという本能的なルール・タブー感がある

 

盤を挟まない関係は、本体がダメージを負うリスクが高い

(そのダメージへの耐性と慣れが後者と違う)

 

前者は他者との境界線をはっきりさせることで自我をつくっている

 → 他者との境界線が曖昧でも自我が崩れない後者と違って境界が無防備になることが危険

 

だからです。

 「できない」わけではもちろんないのですが、後者が思っているほど簡単ではないのです。

 

 

 

 

■なぜ前者は誰も説明しないのか?

 

そういう風に言ってくれればいいのに。

 

…なんて思いますが、まあしないんですよ。

 

 

いろいろ理由はあるとは思いますが

 

ひとつには前者にとって

「相手は中央フィールドがわかってないのかもしれない」

という発想自体が、 ある種のタブー だからかもしれません。

 

 

それって相手を「ゲームのルールが理解できない未熟者」どころか

 

「ゲームというものの理解すらできない人」

つまり

「”人以前”の赤ん坊ないし野蛮人」

 

かのように疑うという、美学に反するレベルで非常に失礼なこと だからです。

 

 

 

また相手にそれを 期待するのをやめること

 

何かしら、この世の前提や自分の価値をひっくり返すくらい

根本的な何かを諦めなくてはいけないこと

 

になるので

 

無意識に想像を避けてもいる…のではないかなと想像します。

 

 

 

 

■前者の「あるある」ショック

 

 

後者同士は、ぷよぷよのような直接接続

「おー!」と通じ合います。

 

しかし前者に対しては

 

仲が良くなってもそれができない、何かが挟まっている感覚 があるために

 

 「なんか距離を感じる・・」

「うまく打ち解けきれない」

 

 と感じたりします。

 

 

人によってはそれを「冷たい」なんて言葉にします。

でもそれを言われた前者は相当ショックなのです。

(あと、冷たいという言葉が、盤上の評価のようにも聞こえて重い)

 

 

前者にとっては、

テーブルを挟むことこそ 相手への尊重だし、マナーです。

 

だから「そのせい」だとは思っていないし、

逆にもしそうなら、それは自分自身の本能に根ざした大事な部分の全否定です。

 

 

しかも 相手のためや場のために さんざんフォローも平和維持活動もやってきた。

 (そっちが好き勝手やってたり飛んでいる時に) 

 

なのになぜ「冷たい」という「評価」がぶつけられ、下されるのか。

 しかも何したらいいのかも わからない。

 

 

後者は前者のこの受け取り方は 知っておいていいと思います。

 

 

 

 

■余談

 

 

 

管理人は西洋が前者社会

日本ふくむ東洋は後者社会だと思っています。

 

 

開国後の対西洋交渉で、日本が西洋の感覚との違いがわかっていなかった話とかは、

この「テーブル」を挟む対話スタイルがわからなかった、てことじゃないかなと思っていたりします。

 

 

ちなみに歴史的な交渉のスタイルを見ると

 

前者社会はテーブルを挟んでトークしますが、後者社会ってテーブル挟まないと思うんですよ。

(時代劇で見たことないなあと)

  

テーブルがないと体(たい)で会話することになる。

そのほうが嘘がつけないし、色んなものをさらすことになる気がします。

 

 

ただ、時代や条件でバランスはあるかもですね。

 

個別に強いのは後者のスタイルだし

ある人数や規模やスピードを超えたら 前者のスタイルが適してくる というのはありそう。

 

 

 


 

 

以上です!

 

「ふうつ」論争の終止符に貢献できれば幸いです!